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対談 大正を通して現代をあぶり出す
内藤 僕の想像ですけど、60年代の建築の図式には、分かりやすい図式と分かりにくい図式があって、分かりやすい図式は丹下さん、長谷川さんがいうところの神殿側ですね。それ以外というのは、実はよく分からない。どうも説明がうまく付けにくいもどかしさがあったのではないかという気がするんです。…
長谷川 …それはそうですよ。だから、さっき、僕より若い世代の歴史をやっている連中や建築をやっている連中が、僕の書いた『神殿か獄舎か』にせよ『都市廻廊』にせよ、それを読んでくれたし、いろいろと考えてもくれたという話をしてもらいましたけれども、建築の設計というレベルでは、僕は多分、完敗だったと思う。
内藤 えっ、そうですか?
長谷川 だって80年代から90年代にかけての、あのバブルの様子を見れば「一体、自分は何をやっていたんだ!」という思いは、やっぱりどこかにありますよ。70年代に著書を通して、「建築家の想像力」だとか「建築家の自己性」とか「建築の芸術性」というようなことをいろいろといってきましたが、「あれは一体、何だったんだ」、そういう失望感が、はっきり言ってないわけではなかった。
内藤 たくさんの建築家が読んだはずなのに、それがバブル的な状況の歯止めにならなかった、という感じがあったわけですね。
長谷川 そうそう。一体、実際に設計している人たちにとって何だったんだろうと…。先程の“分かりにくい図式”という話がまさにそうであって、やっぱりそれは日本経済そのものがちっとも変わっていなかったし、日本の建築界の構造派とまでは言わないまでも、技術主義的なものの考え方も変わっていなかった。そういう感じがやっぱりしました。ですから、特に1990年前後には、僕は、ある種の徒労感を持ったことは確かですね。(略)まもなくしてバブルが大変な盛り上がりで、その結果、また今度はああいうふうに無惨にはじけたでしょう。そういうことの中で、挫折に近い感じが、僕としては強かった。
内藤 でも、経済が動かす心理と言葉が働きかける心理とは、全く位相が違うのではないでしょうか。言葉の働きは目立たないけれど、心の深層に働きかけます。長谷川さんの投げ掛けが本当に有効だったかどうか、結論が出るのはまだまだ先です。
序論・コラム
序論・コラムの執筆陣は、建築家・北山恒氏(横浜国立大学教授)、建築史家の布野修司氏(滋賀県立大学教授)と中谷礼仁氏(大阪市立大学助教授)です。
作品は、「豊多摩監獄」を始め、村野藤吾氏の「世界平和記念聖堂」、菊竹清訓氏の「ホテル東光園」、白井晟一氏の「虚白庵」など、『神殿か獄舎か』で論じた建築家の作品を紹介しています。
左写真上から:
「世界平和記念聖堂」(設計:村野藤吾)
「ホテル東光園」(設計:菊竹清訓)
「虚白庵」(設計:白井晟一)
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