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武田五一は明治5年(1872)、広島県福山で生まれました。書画が趣味である父に影響され早くから絵画の手ほどきを受けていたこと、三高の先輩に、後に東京大学建築学科教授となる塚本靖がいたことなどが、五一の目を建築へ向けさせるきっかけになったようです。東京帝国大学を卒業して大学院へ進み、そのまま助教授職に就きますが、京都に新設される工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の図案科教授に抜擢され、図案学研究のため留学を命じられ直ちにイギリスに向かいます。その後、パリを始めヨーロッパ各地を巡って、2年半後に帰国。その間、イギリスではグラスゴー派、パリではゼツェッションに触れ、帰国後はその影響を色濃く反映した「京都府記念図書館」や「同志社女学校静和館」を設計します。しかし1920年前後から、ゼツェッションと歴史様式や和風を併存させることを試みるようになり、堅苦しさや重々しさを和らげる方向に作風を変えていきます。
また、早くからRC造に注目し、躯体を薄くしてデザインの自由度を高め、また薄い壁をタイル張りで仕上げて表現の幅を広げようとしました。その意味でタイル建築、テラコッタ導入の唱道者とも言われています。「京都帝国大学本館」はその一例に当たります。晩年にはヨーロッパを訪ね、モダニズム建築を目の当たりにし、大いに影響を受けたと思われる作品が、後に発表した「京都電燈株式会社(現・関西電力京都支店)」です。構造体を意識的に強調したデザインは、それまでの五一にはありませんでした。
本誌では代表作の中から「求道会館」、「名和昆虫研究所記念昆虫館・名和昆虫博物館」、「藤山雷太邸」を紹介しています。
写真上:
「名和昆虫研究所記念昆虫館・名和昆虫博物館」
名和昆虫研究所は“日本のファーブル”名和靖によって明治29年に開設されました。五一が華陽学校に入学した時、奇しくも、名和は華陽学校で教鞭を執っていました。その影響か、五一は高校生の頃、生物学者志望だったと言われています。ちなみに、後に名和昆虫研究所を設計することになった経緯は不明とされています。記念昆虫館は昆虫標本を収蔵するために建設されました。屋根窓のガラス面と外壁を同一平面で納めるなど、単純化された形態に当時の五一のディテールへのこだわりが表れています。名和が発見した「ギフチョウ」の鱗粉を転写した椅子や、出入り口の庇の上に取り付けられていた陶製のトンボの装飾なども、五一によるデザインです。その12年後に、名和の還暦を記念して博物館が建設されました。あらゆる要素が直線と直方体で表現されている一方で、車寄せは様式的であるなど、早くも折衷性を強める傾向が窺えます。実施設計は教え子の吉武東里が担当したと記録されています。
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