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藤井厚二は明治12年(1888)、現在の広島県福山市宝町に藤井与一右衛門の次男として生まれました。藤井家は十数代続く造り酒屋、製塩業、金融業「くろがねや」を営む一方、第一級の絵画や書、茶道具を多く所蔵する素封家でした。幼い頃から福山の豊かな自然に加え、本物の芸術品に囲まれて育った藤井は建築家としての審美眼を、この時期に培ったようです。
大正2年(1913)東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、合名会社竹中工務店初の帝大設計課員として入社します。オフィスビルと住宅の設計にかかわり、緻密で繊細なデザイン感覚を大いに発揮します。
大正8年(1919)、6年間勤めた竹中を退社します。同年、武田五一の助言で1年間、欧米で建築に関する諸設備や住宅を視察し、モダニズムデザインの萌芽と最先端の建築設備に触れます。帰国後、藤井は精力的に住宅研究の活動を展開します。竹中工務店時代を含め、25年間に50を超える建物を設計していますが、その大部分が住宅でした。
日本の気候風土に適した住宅を、環境工学の視点から科学的に捉え直し、その在り方を追求しました。藤井は自ら設計した5つの自邸を通して、環境工学を確立。更にプランや生活スタイルの実験・実証を重ねていきます。その完成形といわれている「聴竹居」(1928)には、B.タウトも訪れました。
大正9年(1920)に京都帝国大学工学部建築学科の講師として招かれ、初めに「意匠設計」を担当しました。翌年には助教授に就任、大正15年(1926)には教授に任じられます。「建築設備」、「住宅論」、「建築計画論」を担当し、自らの研究を教育の場で大いに発揮しました。
また、住宅の研究に関する多くの論文や著書を発表しました。昭和5年(1930)には、日本の環境工学と聴竹居の写真や図面をまとめた『The Japanese Dwelling House』と題した英訳本を発行、世界に向けて発信します。
住宅に魅せられ、生涯にわたって住宅設計に専念した藤井厚二は、昭和13年(1938)、49歳の若さでこの世を去りました。もう少し長生きをしていたら日本の建築界は変わっていただろうと惜しむ声を聞くことがあります。
本誌では代表作の中から「八木市蔵邸」、「村山龍平邸(和館)」、「聴竹居・聴竹居内閑室」を紹介しています。
写真上:
「聴竹居」(1928)
京都府乙訓郡大山崎町の約1万2千坪の敷地(山林)にある自邸。ここで第2回目から第5回目の住宅が実験的に建てられました。
第5回目の住宅「聴竹居」の食事室は、居室との仕切りを円弧状の曲線でデザインし、居室と食事室を完全に隔ててしまうのではなく、緩やかにつながりをもたせています。これによって空間の連続性を生み、家族が適度な距離感を持って過ごせるように設計されています。
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